宮本百合子の作品

| 文学 |

 これは男のひとの感情のなかでもきっと同じに現れることなのだろうと思うのだけれども、たとえばこうして異性の間の友情というものを当面とりあげて考えているとき、私の心には、異性の友情の胎とでもいうようなひろいものの感じで、女同士の友情のことが浮んで来ている。女同士の友情への関心ぬきで、異性との友情は十分語りつくせないような心持がしている。これは興味ふかい生活の必然なのではなかろうか。
 女同士は決して心からの友ではあり得ない。なぜなら、男というものに向ったとき彼女同士こそ、互の競争者であるから。そんな意味の警句があったように思う。今日でも、私たちは女の口から、女同士はとかくむずかしくて、とか、いやで、とかいう言葉をきいていると思う。ヨーロッパの風俗で、夜会などで一つ踊るにも女は男の選択に対して受け身の積極性を発揮しなければならないようなところでは、先の警句も、それなり通じた面もあろう。いわば近代的な後宮の女性めいた関係なのであるから。私たちの周囲で、女同士の友情を信じてない言葉がいわれる場合について考える時それはあながち直接の対象として男を置いてのことではないと見られる。遙かにそれより複雑の度を増して来た上での現象で、ありふれたいいかたでは、一種のせちがらさともいえよう。

 斯ういう感情上のことは、各人各様であって、「男子は」「婦人は」と概括的に考えると、至極平凡なつまらないものになってしまいます。此世の何より、金持がいい人もあろう。美貌の異性がよい人もあろう。知識的なのが第一な人もあるでしょう。一種の人間としての魅力が、普通考える美点、美徳でない場合も多くあります。私は男にしろ、女の人にしろ、人生に其の人としての感情、見方をはっきり持っているのを見ると、心を惹かれ興味を覚えます。情感のゆたかな深い点に触れ得る人は好しいものです。

 もし日本の習俗の中で男性というものが女性にとって、良人候補者、あるいは良人という狭い選択圏の中でばかりいきさつをもって来るものでなかったら、異性の間の友情について常に何かロマンティックな色どりを求めるいくらか病的な感傷性も、きっとずいぶん減っただろう。幼稚園時代から引つづいた男の子と女の子との共同生活の感情が、成長した若い男女の社会的な働く場面へまで延長されている社会なら、両性の共感の輪も内容もひろげられ、明るくされ、今日つかわれる異性の友情という表現そのものが、何か特定な雰囲気を暗示しているようなうざっこさは脱して、たのしい向上的な両性の友情感が一般の社会感情の一つとして行きわたるのだろうと思う。そういう社会的な土台があっての両性の友情感であれば、おのずから恋愛との区分も、感情そのものの質のちがいとして、本人たちもはっきり自覚することができるのだろう。
 日本で、さわやかな両性の友情の成り立ちが困難な原因は、もう一つあると思う。それは、日本の婦人ぐらい欧米の男にだまされやすい女性はないという、その現実の源泉と社会的な性質では全く同じもので、日本の女性たちの日常は、どちらかというと男から荒っぽく扱われ生活感情を圧しつけられて暮らしている。男のひとのいい分とすれば、その外見的な粗暴のかげに日本の亭主ほど女房を立てているものはないと説明される。だけれど、男の側から見かけだけは荒っぽく扱われている日本の女こそ、習俗の上で見かけの礼儀や丁寧さのこまやかな欧米の男にだまされやすいということは、外見だけの荒っぽさと称される境遇が、それだけ女の心を、外見のねんごろさにさえもろくしている深刻な機微を語っているのだと思う。外見だけのこととしていいくるめきれない女性歴代の情感の飢渇が、哀れな傷をそこに見せているのである。